
録音配置図 (推定)
人名下線は録音後に拘束
◆宮内省から、石渡荘太郎大臣、加藤進総務局長、筧素彦総務局課長の3名
■情報局から、下村宏総裁/加藤祐三郎第一部長/山岸重孝放送課長/川本信正総裁秘書官の4名
●日本放送協会から、大橋八郎会長/矢部謙次郎国内局長/荒川大太郎技術局長の幹部3名、
近藤泰吉技術局現業部副部長/長友俊一/村上清吾/春名静人/玉虫一雄の録音班5名
▲藤田尚徳侍従長と三井安弥/戸田康英/徳川義寛/入江相政の各侍従の5名
△菊池正治警部
(スピーカーは録音後の位置)
参考資料 :『日本放送史 上巻』1965/『20世紀放送史 上巻』2001/
『今上陛下と母宮貞明皇后』筧素彦 1987/Google Earth ほか
録音盤は、直径10インチのセルロース盤 (ラッカー盤またはアセテート盤ともいう)。録音時間は片面約3分。厚さ1mm程のアルミ基板の両面に、ラッカーを0.3mm程の厚さで塗布したものです。
ラッカーは主成分のニトロセルロースに、ひまし油・フタル酸エステルなどの可塑剤と顔料を加え、酢酸エチル・酢酸ブチル・アルコールなどの溶剤で溶かしたものです。
溶剤が揮発しして硬化した塗膜に、音の波形をカッター針 (金属製) で刻み込んで録音します。
10回以上の再生に耐えるとされていますが、品質/耐久性にはばらつきがあったようです。溶剤の揮発による枯化のため、製造から3ヶ月以内に使用することが推奨されました。音の頭は内周側 (Inside-out)。これは内周側に引き寄せられる切削屑がカッター針に絡むのを避けるためです。両面に録音可能ですが、この時使われたのは片面のみでした。
録音機は2台1組で、2分を過ぎると別の録音機の盤へというふうに、録音を一部重ねながら交互にリレーしてゆく方式です。録音時間は事前には知らされておらず、何十枚もの録音盤が用意されたと思われます。
戸田侍従の声でマイクをテスト。1回目の録音は、声が小さく一部不明瞭で、天皇自らの仰せもあり2回目が行われました。
読み上げは約4分半で、B班は3枚目に着手しましたが、結果的に両班とも2枚に収まりました。2回目の録音盤を「正」(OKテイク)、1回目を「副」と呼びます。
天皇は試聴せずに日付の変わる前に退出し、宮城内の御文庫に無灯火の車で戻ります。一行は放送予定の「正」の摩耗を防ぐため、「副」を検聴しました。玉音盤を筧課長に預け、翌15日11時までに放送会館に届けるよう依頼。上の写真の二缶に収められた「正・副」は、徳川侍従に渡されます。 音盤は同庁舎1階の皇后官事務官室に保管されます。これが幸いします。
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時事ドットコムニュース 2015・8より

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玉音関連地図
関連個所は皇居とその周辺に集中していることが分る
議事堂・靖国神社・宮内省・丸の内の一部を除くほぼ全てが焼失
明治宮殿も5月25日の大空襲で飛び火により全焼した

DENON DP-17-K型 円盤録音機
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陸軍の青年将校らが宮城を一部占拠し、録音盤の奪取と木戸・石渡両大臣の捕縛を企てます。録音帰りの総裁はじめ運転手を含む16名は、坂下門を出られず、翌朝まで二重橋畔の衛兵詰所に拘束監禁されます。この顛末は林茂の『日本終戦史』、下村海南(宏)の『終戦秘史』や半藤一利の『日本のいちばん長い日』に詳述されています。
正/副音盤が宮内省の幹部職員によって、別々に皇居から目と鼻の先の内幸町の放送会館に届けられたのは、15日の午前10時台。再生も担当することになった春名技師が、2階の第八演奏室で受取ったのは放送開始の15分前でした
。
いよいよ本番。1枚目の演奏が2分を過ぎると、2枚目を回転させます。2枚の同期を取った上で、言葉の間の無音部分で、スイッチで音声を切替えます。熟練の業ですが冷や汗ものです。局ではこれらの操作を"皿回し"と呼んでました。
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放送されたのは「正」です。「正」のもう1組は、不測の事態に備えて同館地下の予備放送室に (玉虫技師が待機)、「副」は東部軍司令部のあった第一生命館の地下の臨時放送室に準備されましたが、出番はありませんでした 。玉音盤は全て宮内省に引き渡され保管されます。
昭和天皇自身もも放送を吹上御所の御文庫附属庫(地下防空壕) の御休所で聴かれ、泣かれました。ラヂオは皮肉なことにグァムでの戦利品で、米国製のRCA Victor 12X。横幅約25cmの5球スーパーで、国産より高性能でした。 |

RCA Victor 12X ラジオ受信機 |

「裕仁」は自筆か
内廷庁舎2階表御座所
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放送は内外の聴取率の最も高い正午に開始。時報に続き、「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願ひます」と和田信賢放送員が一声。
玉音のほか、君が代奏楽(音盤再生)/内閣告諭/御前会議の模様/ポツダム宣言受諾について等々、全部で10数項目37分半ありました。玉音と君が代以外は生放送です。
録音室で全てを同時録音しましたが、玉音が占領軍の手に渡るのを怖れ、翌16日に廃棄してしまいます。地方局の一部でも同録しており、今後見つかる可能性も皆無とはいえません。
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玉音放送に先立ち、14日21時と15日午前7時21分 (当初予定は5時) に予告が放送されました。この間に阿南(あなみ) 陸相は辞世の句を残して自決。15日の各紙新聞朝刊は、政府の指示を受けて午後配達され、戦争終結の大詔渙発を一面で報じました。19時41分から、鈴木貫太郎首相が「大詔を拝し奉りて」を放送。
予告放送の原稿の一部 8月15日午前7時21分放送分
赤字2箇所は「ポーズ」(間の意)
玉音放送では電波管制による出力制限 (中央放送局で昼間10kW) を、臨時に50kWに増力しました。国内のラジオ受信機は、同年空襲などで170万台以上が失われ、残存は約530万台。(国内人口は約7,200万)
同時に東亜放送の短波で、中国占領地、満州、朝鮮、台湾、南方諸地域の出征将兵、在外邦人向けに放送されました。
海外向けの「ラジオ・トウキョウ (短波)」では、20言語に順次翻訳され、数日間に渡り数次放送されました。連合国側は短波・中波を各所で捉えて記録しました。
8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙は英訳全文を掲載しました。
聴取者の大半が、よく聞き取れなかったと回想しています。一方「耐え難きを耐え 忍び難きを忍び」の一節はよく分ったとの多くの言があります。
当時ラジオは防空情報を聞くための必需品でした。その扱いには慣れていたはずです。原因は放送設備や中継線の被災による出力低下や、同一周波数 (8月から全国8群、関東は800キロサイクル) の影響など電波事情もあったでしょう。一番の原因は、語句が難解な上に、御告文 (おつげぶみ) の奏上にも似た抑揚のある独特の口調だと考えられます。しきりに鳴く蝉の声も喧しかったのです。一般国民が天皇の声を聞くのはほぼ初めてでした。
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朝日新聞号外 8月15日
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米国戦略爆撃調査団調べ (複数回答可、約5000人に面接、1945年10〜12月)

当時天皇皇后は御文庫に起居していた
御文庫附属庫は昭和16年に完成した会議室を有する防空施設
この二つは昭和20年5月に地下通路で結ばれた
(日経電子版 2015.8.1 より)
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詔書の文言は、9日と14日の御前会議での天皇の発言を元に、漢学者の川田瑞穂が起草しました。これに手を加えたものが、16時から閣議で審議されました。ここで紛糾し、加筆修正に時間を要します。直しは40個所を超え、どたばたで清書され一部切り貼りで修正されました。
玉音放送は、重臣らの奏上を受けて、天皇の「国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前に立つ」との発言を受けてのものです。
口語体で行うつもりでした。ところが「朕(ちん)」と「爾(なんじ)」という人称代名詞が、口語化できないのです。仕方なく漢文調のままとなりました。
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音声を分析した日本音響研究所の鈴木創所長によると、天皇が最も緊張しているか感情が高ぶっているとみられるところは、「 堪え難きを堪え忍び難きを忍び」の一節。振動数が上がり、「堪え難きを」と「堪え」の間に一間あることを、その理由としています。
「副」は1975年にNHK放送文化研究所に"お貸し下げ"となりました。1枚は愛宕山にある放送博物館にケース入りで展示されています。(レーベルに書込みがなく模造品の説も)
副は2組計7枚です。こちらは見た目には修復されましたが劣化が激しく再生不能です。
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放送博物館に展示の音盤
レーベルに記載がないのは?
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玉音放送から1週間後の8月22日に、開戦とともに途絶えていた天気予報が3年8ヶ月振りに復活し、今日まで続いています。
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■ 参考文献
『放送夜話』日本放送協会 1968
『放送五十年史』日本放送協会 1977
『終戦史録 5』外務省編 北洋社 1978
「悲劇喜劇」1985年9月号 早川書房
『密室の終戦詔勅』茶園義男 雄松堂出版 1989
『戦争と放送』竹山昭子 社会思想社 1994
『ピース・トーク 日米電波戦争』北山節郎 ゆまに書房 1996
『侍従長の遺言』徳川義寛・岩井克己 朝日新聞社 1997
「国産円盤録音機物語」阿部美春 JASジャーナル 2003−2004 日本オーディオ協会
『昭和天皇 1945-1948』高橋鉱 岩波書店 2008
「永原実歴史講座 第53回講演録」2011
『君は玉音放送を聞いたか』秋山久 旬報社 2018
『コンサイス 東京都35区 区分地図帖 復刻版』東京空襲を記録する会 日地出版 1985 |
[追記] 玉音放送については、刊行物・証言・ネットなどに、不正確なものが多く出回っています。
本稿は複数の情報に当たり、正確を期すべく改訂を重ねています。(2022・2)
(ステージ・サウンド・ジャーナル 2017年9月号 日本舞台音響家協会刊 より)
→『8月15日[玉音放送]の音響考古学』 (地人館) に詳しい記載があります。